お疲れ様でしたー。後輩たちを見送って最後に部室を出る。部室の鍵の管理は部長の私の仕事だった。今日はちょっと遅くまで練習した所為か、時刻は19時半を回っていて、急いで帰らなきゃ毎週楽しみにしているバラエティ番組の時間に間に合わない。 「ちょいちょい、」 「・・・なんですか、忍足先生」 化学実験室の窓から顔を覗かせて私を呼んだのは、化学の忍足先生だった。2年前の高校入学したての頃、どの部活に入ろうかと運動場をウロウロしていた私に、今日のように化学実験室の窓から「そこの新入生のお嬢ちゃん」と声をかけて来た。見ると10も年の変わらなさそうな若い先生で、私を見て微笑んだのでつられて笑い返して見ると、「お前の脚綺麗やな。俺好みやで。名前とクラスは?」と、いきなりな発言に絶句したことは今でも忘れない。 「ちょっと頼まれ事してんか」 「嫌です。早く帰りたいんで」 「後で飴ちゃんやるからちょっとだけ手伝おてや」 あの発言事件以来、私はこの先生にあまり関わらないようにしようと決心した。関わると危ない気がした。けれどもテニス部に入れば顧問であり、委員会活動では絶対担当にならなそうな美化委員になったら担当の先生だったりと、 切りたかった縁はどこまでも繋がるばかりで、挙句の果てには「川瀬はそこまで俺と一緒に居りたいんやな」と言われる始末。もううんざりだ。飴ごときで釣られるものかと思っていると、忍足先生はニヤリと笑った。 「受験前のは、化学の成績下げるの不味いんとちゃうか?」 「・・・卑怯ですよ」 「そやな。でもホンマに急用やねん。助けてや」 時計を見ると引き止められていた所為もあって番組はとっくに始まってしまっていた。今帰っても中途半端で見る気も起きないだろう。仕方なしに先生の言葉に化学実験室へ手伝いに向かう。化学実験室のドアを開けるとうっすらと紫煙が漂っていた。 「煙草、また此処で吸ったんですね」 「あ、気ィ付いた?でも明日には匂い消えてるやろし大丈夫やろ」 「吸うならちゃんと決められた場所で吸って下さい」 「アホか。あんな人多いとこやと逆に息詰まるわ」 「いつか跡部理事長先生に訴えますよ?」 「あいつのことやからもう気付いとうやろうな。その内苦情の一つや二つ届くんとちゃうか?」 あいつが知らんはずないからなぁ。と、どこか他人事のように忍足先生は言う。でもまぁとりあえず今日は忙しいて苛々しとったんやから見逃してや。と忍足先生は頭を掻いた。確かにいつもは綺麗に整理されている(というか何もないだけ)化学実験室の机の上には書類が積み上がり、無残な姿を見せていた。 「明日配布なん忘れてたねんなぁ、これが」 「・・・すごい量ですね」 「やろ?だから二人でやればちょっとでも早う済むやろし、さぁ頑張ろか」 忍足先生は跡部理事長先生の学生時代の同級生らしく、教師として優秀な才能を見出だされて連れて来られたのか、はたまた仕方なしに雇ったのかのどちらかは知らないけれど、テニス部の顧問としては文句なしだった。作業を始めると化学実験室にはホッチキスで留める音とプリントのカサカサと紙の擦れる音だけが響き、言葉を交わすことなく黙々と作業をこなした。 * それから小一時間程で作業は終わり時刻は21時を指す頃。一応親にはメールを入れてあるけど早く帰るに越したことはない 「じゃあこれで失礼します」 「あぁ、送るからちょお待ち」 「近いんで大丈夫ですよ?」 「アホ。チャリもない女子高生を夜道に一人で帰せるか」 車とって来るから校門前に居れ。と、プリントと保健室の鍵を持って職員室に向かう先生の後ろ姿を見送りながら、言われた通り校門前に向かった。黒い車が校門の前に止まり、後ろのドアに手をかけると何故かドアは開かなかったので、助手席に乗り込んだ。自宅まで車で5分の間、大した会話も出来ず、あっと言う間に家に着いた。 「送ってもらってありがとうございました」 「お礼言うんはこっちやで。非常に助かった」 「間に合って良かったです」 「・・・あー悪い。約束の飴ちゃんないわ」 「別にいいですよ」 「せやかて約束は約束やしなぁ・・・」 んー、と頭を悩ませていた忍足先生が突然閃いた様に降りかけていた私を呼び戻した。飴ちゃん以上の働きしてもろたし、特別な。と、急に忍足先生の手が私の顎を掴むと、顔が近付いて頬に温かいものが触れた。俺のチュー、ホンマは高いんやで。冗談混じりに出会った時と同じ笑顔で言った先生の、左手薬指の銀色が光って胸を焦がした。 ユア キス キル ミー (07/12/01) |